昭和五十二年十一月一日 朝の御理解
御理解第九十四節 「信者に不同の扱いをすな。物を余計に持ってくると、それを大切にするようなことではならぬ。信心の篤いのが真の信者じゃ」
実際は大変難しいことですね。これは信者に限らず、御不同な扱いをするということは。
昨日、「御理解感話集」を、今度の記念品の、全部読ませて頂きました。皆さんどうでしょうか。もうお読みになったでしょうか。もちろんあれは読むというよりも、もうその都度都度に頂くご本だと思うんですけれども、やはり読み出したらやめられなくて、結局読んでしまったわけですが、丁度この九十四節の所の御理解に、「大人と子供を同じに扱えということではないんだ」と言うことが書いてあります。だから難しいですね。「信者に不同の扱いをするな」と。ということは、同じに扱えということではないということ。 私はいつもここの所で例に申しますように、久富先生は大変御神酒が好き。秋永先生は御神酒は頂きません。ですから、久富先生には私は焼酎を勧めて、秋永先生にはビールをこう勧める。「秋永先生だけにはビールを勧めちから。久富先生には焼酎を飲ませなさる。あげな御不同なこと」と知らん人は思うかも知れませんですね。けれども、私としては一様に扱っておるつもりなんです。ですから、なかなかその辺の所は難しいですね。
昨日、感話集にも、「大人と子供を一緒に扱えということじゃない。子供は子供として、大人は大人として扱う」それが言うならば、不同に扱わないということなんです。ですから、なかなか難しい。神様がご覧になって、不同の扱いをしておらんなと見て下さるということは、結局自分の心に問うてみなければ分からないと思う。 その、九十三節に、「人間はみな同じように神の氏子じゃによって、見下したり汚がったりしてはならん」というところがありますね。なんかでもやはり結局は、神様の氏子としての見方が一番間違いがない。神の氏子としての見方。
そこで、どういうことになるかと言うと、結局はね、どの人もが自分よりも素晴らしく見えるということ。人があの人を軽う見るとか、あの人はちっとは足らんとじゃなかじゃろうかと言うような人でもね、よくよく見よると、とても私共では真似の出来んようなものを持っておられる。人それぞれにやはり、素晴らしいものを持っておる。また、素晴らしい欠点も持っておるけれども、結局自分というものを見極めるということ。
だから、自分が最低の自分というものを見極めた時にです。みんな自分よりも偉く見える。素晴らしく見える。とてもあの人の真似は出来んといったようなふうに、私は感じれれる時には、不同の扱いをしていない時だと思うですね。
「もうあれはつまらん」というような軽蔑するというか、人を見下したりするといったような心の状態の時には、結局自分が分かっていない時だと。「もう本当言うたらあの人以下だ私は」というような自分をやはり見ること。いつもそこんところへ自分の心を置いておくということなんです。
私は思うのですけれどもね、何故そういうような、お道の信心をさせてもらえば、そうでなからなければいけないかと。いよいよ自分というものを尊大な頂き方ではなくて、いよいよやはり「屑の子われ」としての見方。そして自分以外のすべての人を、神の氏子としての見方。そういう心の状態になった時が、一番有難いんです。人を軽蔑したり、見下したりしている時の心というものは、もうおかげの受けられない心です。ですから、おかげが、まあ言うならば、高いところから低いところへ水が流れるように、低いところへ低いところへと水が流れるように、おかげもまあそんな感じが致します。
例えば、「道を間違えるな」とか、というような、大変このお道の信心では「道」ということが言われます。自分は道を間違えてはいないとこう思っておる。そして、その道を真っすぐに歩いておるつもりだけれども、一つも言うならば神様のお心と交流することもなからなければ、おかげの世界にもたどりついていないと。しかも長年の信心をしておって、というような場合がございますがね。
これなんかでもやはり、今日の御理解と同じことで、大変やはりその道ということが難しいからなんです。道というものは真っすぐということはない。いかにも真っすぐいようにあっても、ここから久留米までの道を、真っすぐ一本道ですけれども、実際は真っすぐじゃないのです。この辺から勿体島辺りになると、こんなにこう曲がってますよ。それを「真っすぐ行かんなん」ちゅうて真っすぐ行きよるもんだから、田圃の中通ったり、その多くの障害にぶつかったりするわけなんです。道というのは、ちゃんとある意味合いでは曲がりくねっているのです。問題は、目的地に到達し得ない道は、だから真っすぐい道じゃない。この道さえ行けば、いよいよ間違いないおかげの頂けれるという確信の持てる道でなからなければ、本当の道じゃない。
なかなか、そんな人がありますよ。自分は道を間違えていない。そして一生、もう難儀苦労で終わっておる。そこでぶつかったり、ここでぶつかったり。そりゃ、真っすぐ行かにゃいけん。田圃の中でんなんでん行かにゃならん。道というものはそんなものじゃ決してない。
そこで、なら、道はどういうことかというと、「道という言葉に迷うことなかれ、道は教えを踏む他はなし」とあるのです。分からないから、その教えによってこう、言うならば矢印なら矢印が付いてるです。ちゃんと。あちらへ行けこちらへ行け、教えとはそういう指し示すもの。指針になるものです。
私共でも随分、道を間違えておる。言うなら、「合楽は間違っている」と言ったような、言うことを随分聞いて参りました。成程私がこれが本当の道だと、神様が教えて下さる通りに歩かせて頂きよったら、「本当に合楽の大坪は、親を親とも思わない人非人だ」とまで言われたんです。ところがです。私の場合には、教えを踏み行なうというか、教えをたどらせて頂いての道でしたから、間違いのない道にいよいよ出て、この道さえ行けば絶対だというように、言うなら、合楽理念の確立といったようなおかげになってきた。そして道を間違えていない証拠に、言うならば、私も助かり、人も助かり、言うならば、人間の力ではどうにも出来ない程しの、言うなら神様の御発動が始まっておるとしか思えない、言うならば道が開けておるということなんです。
だから、人間が決めたとか、人間が思う道というものは、えてしていかにも真っすぐに、この道を真っすぐにと言うて、真っすぐに真っすぐに行きよるから、田圃の中に落ち込んだり、山にぶつかったり、薮の中をわざわざ怪我しながらでも、こうやって分けて行かんならんような結果になるのです。道というものはそうじゃない。そりゃもう、それが天地につながる大道といったようなことを言われますが、天地の大道というのは、教祖様が指し示される道というのは、天地につながる大道です。誰でもお徳の頂けれる道なんです。誰でもおかげの頂けれる道なんです。そこでお徳が受けられないおかげが受けられないとするならば、自分の歩いておる道を一遍、考え、言わば見なおさなければいけんのです。
真っ直い道というのはおかげの頂ける道、お徳の頂けれる道じゃないです。言うなら本当の道というのは、お徳が受けられ、言うならば天地との交流も頂け、そこから、産みなされるおかげの中に、浸っていけれる程しの道なんです。だからこれなんかも実に難しいですね。習わなければ分からない。
天地につながる大道なんて言うたら、真っ直い道かとみんなは思うておるんですね。そうじゃ決してないです。もう曲がりくねっておるようなまあ道、その曲がりくねっておるところを歩かせて頂く時に、人が「あれは間違うとる」と言うふうに言うかも知れませんけれども、神様が教えて下さる。神様が指し示して下さる、言うなら指針に基づいて、歩かせて頂いておるから、自分の心の中には、有難い勿体ないという心が尽きない。
人から笑われても、例えば悪う言われても、神様から笑われてはならんという心が生まれてくる。神様から笑われてはならん。神様のお言葉に忠実であるというその心が、もう有難い心なんです。言わば有難い心が許される心なんです。許された有難さなんです。
まあ九十四節の、人を軽う見たり、または見下げたり、または不同の扱いをしてはならん。もう本当にそれどころじゃないとこう思いますけれども、この不同の扱いをしてはならないところにです。私共がぎこちない扱い方をしておるような場合はありはせんだろうか。それこそ、「大人と子供と、一視同仁だから一様に扱わなければいけない」と言うて、さあ子供に食事を作るのに、御神酒の一本も付けちから、こうやって、おかしいでしょうが。実に滑稽なんですよ。と言うて、なら、大人に子供が食べるおやつのごたるものをこうやっただけではいかんというようなものでね、大人には大人、子供には子供、それが不同の扱いをしないということですから、実を言うたら、教えを頂かなければ分からんということなんです。
なら、道ということでも同じことです。「真っすぐさえ行きよりゃ人間な良か」ちゅう。ただその真っすぐ行きござる人ば見てみると、もういつも何かに、言うならば、怪我だらけ。薮の中さ入って真っすぐ行こうと思いよるものだから、薮があるなら薮の所をこう曲って行きゃええ。川にぶつかったなら、橋のあるところを選っていったら良いけれども、ザブザブ川でん何でん渡って行かんならんごたる結果に。そういう生き方をしておる人がどの位あるか分からない。実におかしな話である。
信心とはそういう、言うならば、天地とも交流する程しの道、言うなら、「天地の大道を喝破する」とこう言うが、その神様が、教えて下さるその道そのものをです。だからそういう時に、まあ桂先生のみ教えをお借りするとね、「世の中には、親に孝行をして神に不孝をし、そして親に不孝をしておる氏子がある。親に不孝をして神に孝行をし、そして後に親に孝行をしておる氏子がある」
まあこれなんかは端的に、今私が言おうとしておることが表現してあるようですね。だから、私の場合、神に孝行をして、親にいかにも不孝かに見え、ですから、「大坪は人非人だ」「親不孝だ」とこう言う人がありますかもしれんけども、神様の方へ孝行しておる。神に孝行をして、その後に親に孝行しておる。
けれども、親に孝行をして、神に不孝をしておる。いかにもあの人は親孝行もんだ。親孝行もんだ。そんな親孝行もんならば、素晴らしいおかげも頂かんならんけれども、なら、一生うだつが上がらんで済んだといったようなのは、そういうところに、本当のことと本当でないことの言わば、見極めが付かない人を言うのだとこう思うです。
そりゃ様々な所をお互い通らせて頂いております。言うなら難儀がそれです。だから、本当に道を間違える程しの、言うなら迷いが出る程しのところを通っておるのです。そういう時に、私共は、御神意を頂きながら、本当は右と思うけれども、親先生が左とおっしゃるからと言うて左の道をたどらして頂くという生き方は、だから間違いのない道を歩かせて頂いておるということになるのです。
教祖様のみ教えは大変深くて広いですからね、簡単明瞭で分かるかと思うと、簡単明瞭である、例えば「不同の扱いをするな」とおっしゃると、「はあそうですな、なら不同の扱いをしてはならん」なら帰ってから、親と子供を一様に扱いますといったようなことではおかしいことになるでしょうが。
そこでまた、なら、子供はどう扱ったら良いか。大人はどう扱ったら良いかと。それを言うなら、自分を掘り下げて掘り下げて見よと。自分というものをギリギリ見極めてみよと。子供でも、大人でも、どういう人が見下げるような人であっても、自分をギリギリの所からその人を見ると、その人を見上げずにはおれない。神の氏子としての見方が出来るようになる。そこから間違いのない、言わば扱い方というか、思い方が出来るようになる。そこに私は、本当の教えを頂く、教えを行ずるということになるのです。いかにも教えを行じておる。私は「不同の扱いはすな」と言われるから、不同の扱いはしよらん、と言うても、そこにおかげの様子というものが見えてこないならば、これはちょっとおかしいぞと気付かしてもらわなければいけない。
先日から電話がかかっておって、昨日改めて手紙が参りましたが、日向教会の滝口という先生がおられます。まあだここには、奥さんと移り変りに四五回ぐらい参られたことでしょうか。合楽にご縁を頂かれたもう時点からおかげが、教会に何か生き生きとしたものが生まれてきた。この頃記念祭にも、お参りになっておられましたが、今度七日があちらの御大祭。それに「是非親先生という訳には参りませんでしょうから、ここの在籍の先生ならどなたでも良いからお説教をお願いしたい」という、昨日お願いの手紙が参りました。
これを例えば、今私が申します。「真っすぐの道はこれだ」と言い、それこそ薮の中でん何でん入っとる先生やら信者が見たならば、「滝口先生は間違いよんなさっとる」と言うでしょうね。だから本当にその辺の所は、本当のことというのは、必ず本当のおかげが必ず伴うのですから、まあおかげの実証と言うもの、それは勿論形の上にも、自分の心の上にもでありますけれども、自分の心に有難いものが育って、その有難いものにおかげが伴うてくるなら、まずはそれが本当なものであるということですけれども。あちらは、双岩かどこか辺りの関係の教会らしいけど、よく知りませんけれども、とにかく全然こことは、言うなら、「そういう道の違った、道の間違った先生どん呼んでから」というようなことになりかねないのが、今言うならば、教団が言うならば落ち込んで上がられないで苦しんでおるものが、そういうところにも意味があるようです。元があるようです。
昨日、月末御礼会でしたから、丁度四十四五名の人たちが集まっておりました。それでここで、お広間で円を描いてしておりましたが、矢野先生がこういう発表をしておりました。
この度、初めて父がここの記念祭におかげを頂いて、お祭が初めの間は、「おまえは道を間違えとる」と、「合楽にどんお前修行に行って」と、非常に反対であった。もうとにかく、八十幾つになられるまあ言うならば、頑固と言えば頑固。一つの信念を貫かれた方ですから、もう甘木一辺倒の父でありましたけれども、この頃、こちらにおかげを頂いて帰る時に、その娘さんに、あつ子さんと言いますが、「ここは本なもんばい」と言うて帰られたと言う。
だからその、触れてみて、本当のものと言うことが分かって、甘木の信心が素晴らしい。合楽の信心が素晴らしい。久留米の信心が素晴らしいと、その素晴らしいところを例えば三つなら三つ集めたら、もっと素晴らしいことにならなきゃならん。それに、「甘木の者な久留米に行っちゃならん」「久留米の者な合楽に行っちゃならん」というような間違った観念がね、窮屈にして、おかげの頂けれる道を指し示されておるにもかかわらず、それを指し示した道を歩こうとしない。
佐田先生も昨日話をしてました。あちらも今度、記念祭にお父さんが一遍ここに挨拶に見えまして、それから記念祭で二度見えられた。お母さんは、この頃しげしげとお参りになります。初めに見えた時に応接で、お茶でも差し上げながら、色々話しとったんですけれども、「本当に自分が合楽の教会で修行するちゅうごたる気持ちでね、修行すりゃ、自分の教会ででも修行が出来ると思いますけれども」の一点張りでした。一生懸命すりゃ自分の教会ででもいいんだ。自分の親教会ででもいいんだと。ところが一生懸命になればなる程、おかげが頂けん教会がありますからね。言うならば。それで、一度お参りして見えて、二度三度感じられるところがあって、お参りをされるようになった。
昨日一昨日なんかは、岡山におられるご自分のご兄弟をお導きして参られました。例えば、そういう間違った道ならば、おかげの頂けるはずがないです。もし間違っておるなら。間違ってないからおかげを頂くんです。ですから実を言うと、金光教で言う「道」とか、または「不同の扱いをすな」とかと言っておることの頂き方、考え方が、本当言うたら、間違っているということに気付かなければならない。
なら合楽だけが絶対のものであり、本当のものだというのではなくて、合楽の場合は、足したならばひいてみる。ひいたならば足してみるという、その一歩一歩確かめながら進めておるわけ。ですからまあ大体間違いはない。その証拠には、言うならば、信心を身に付け、信心が頂けて行く。心の上にもおかげを頂く。形の上にもおかげを受けるということになります。まあとんだところにお話が参りましたけれども。
私はこの九十四節の、「不同の扱いをすな」ということではなくてです。実を言うたら、教祖のみ教えは非常に難しいということです。簡単のようであって難しい。そして私共が本当の意味において、「神様の目からご覧になって、不同の扱いをせんで済むようなおかげを頂いたら、あなたはおかげを受けるんです」と。教祖様がおっしゃる「不同の扱いをすな」その神様がご覧になって、不同の扱いをせんで済むようになったら、おかげが頂かれるんです。
今日はまあそういうところを聞いて頂いたらいいと思うんです。私共はこれは一事が万事にです。これが本当だと思っておることを、これは常識的な、時々ここでは、もうメチャクチャなことのようなことを申します。けれどもそれは、私は「超常識」とか、「超道徳」とかと言う風に申します。けれども、やはり素晴らしい道徳であり、素晴らしい常識ですから、素晴らしいそれにはおかげが伴うんです。ただ常識的であっては、ただ人間的な、言うなら、五と五と足せば十になるというおかげは受けられるかも知れませんけれども、五五、二十五といったようなおかげにはなって来ないのです。それには掛算も割算もやはり覚えなければならない。ということになります。
私共が思うておる、不同の扱いをしておるかしていないかは、自分の心に問うてみるが一番分かる。「もうあん奴はこん位のことでいい」というような、言うなら人を見下げたり、教祖様は「見下したり」とおっしゃっておられますね。見下したりしておるような心がありはしないか。もしあるとするならば、自分が良かとのごと思うとる証拠。だから自分というものを、もっともっと掘り下げてみて、本当にその人以下の私であるという。言わば屑の子の自覚に立つ時に、すべての人が、神の氏子としての見方が出来るようになる。といったようなことを聞いて頂いたですね。
どうぞ。